十四代 沈寿官 薩摩茶碗 chin, jukan satsuma bowl

沈 寿官

慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中に、初代 沈当吉はいた。沈家は、慶尚北道青松に本貫を置き、その一族は李朝四代世宗大王の昭憲王后を始め、領議政(国務総理)九人、左議政、右議政(副総理)、四人等を出した名門である。

薩摩の勇将島津義弘によって連行された朝鮮人技術者達(製陶、樟脳製造、養蜂、土木測量、医学、刺繍、瓦製造、木綿栽培等)は、見知らぬ薩摩(現在の鹿児島)の地で祖国を偲びながら、その技術を活きる糧として生きていかねばならなかった。 陶工達は、陶器の原料を薩摩の山野に求め、やがて薩摩の国名を冠した美しい焼物「薩摩焼」を造り出したのである。それらの焼物は、薩摩産出の土を用い、薩摩土着の人々の暮らしのために作られた地産地消のものであり、それらを『国焼』(くにやき)と呼ぶ。

江戸時代、薩摩藩主であった島津家は朝鮮人技術者達を手厚くもてなし、士分を与え門を構え、塀をめぐらす事を許すかわりに、その姓を変えることを禁じ、また言葉や習俗も朝鮮のそれを維持する様に命じる独特の統治システムを創った。
沈家は代々、薩摩藩焼物製造細工人としての家系をたどり三代 陶一は藩主より陶一の名を賜わり、幕末期には天才 十二代 壽官を輩出した。

幕末期の藩営焼物工場の工長であった十二代 沈壽官は薩摩藩財政改革の中で薩摩焼の振興に多大なる貢献を果たした。更に明治六年(1873年)、日本を代表してオーストリアのウィーン万博に六フィート(約180cm)の大花瓶一対を含む幾多の作品群を発表し絶賛を浴びた。以来、「サツマ」は日本陶器の代名詞になっていくのである。 十二代 沈壽官は透し彫り(すかしぼり)、浮き彫り(うきぼり)の技術で明治十八年(1885年)農商務卿 西郷従道より功労賞を受けた。明治二十六年(1893年)には、アメリカ合衆国シカゴ・コロンブス万博において、銅賞を獲得。

明治三十三年(1900年)にはパリ万博にて銅賞。明治三十四年(1901年)には産業発展の功労者として緑綬褒賞を賜った。さらに、明治三十六年(1903年)にはハノイ東洋諸国博覧会において金賞、続く明治三十七年(1904年)セントルイス万博にても銀賞を受賞した。明治三十九年(1906年)七月九日、この世を去る、まさに最後まで、精力的に薩摩陶業に邁進した。

日本陶器の代名詞とまで言われた薩摩焼の総帥でありながら、十二代 沈壽官は海外の嗜好に決して迎合せず日本人の美意識を貫き、最後まで自らを『平民』と称し続けた硬骨の人であった。

十二代 沈壽官の死を受け、長男の正彦は尊敬する父の名を襲名する事とし、明治三十九年(1906年)十三代 沈壽官を名乗る。しかし明治四十三年(1910年)に韓国併合が行われる。朝鮮人陶工を始祖にもつ苗代川陶工達にとって厳しい時代背景の中、偏見と差別の中で誇り高く、そして誠実に父祖の業と伝来の作品群を守り抜いた。

大正十一年(1922年)より昭和三十七年(1962年)まで四十年間に渡り、苗代川陶器組合長として薩摩陶業の発展に尽くした。その孤高の生き様は、現在の沈壽官工房の礎となっている。

昭和三十八年(1963年)産業発展の功により県民表彰を受賞。翌昭和三十九年(1964年)没。

十三代 沈壽官の長男 恵吉も昭和三十九年『壽官』を襲名。十四代 沈壽官を名乗る。

昭和四十三年(1968年)十月、作家 司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』の主人公としても登場。

昭和四十五年(1970年)大阪で開かれた万国博覧会に白薩摩浮彫大花瓶を出品し好評を博す。

平成元年(1989年)には明仁天皇陛下より日本人初の大韓民国名誉総領事就任を承認された。また、平成十年(1998年)に行われた国際的イベント『薩摩焼400年祭』の成功により、金大中大韓民国大統領閣下より民間人としては最高位にあたる大韓民国銀冠文化勲章を受章した。

薩摩焼の名を再び全国へ認知させた功績は実に多大なものがある。

平成十一年(1999年)一月十五日、十四代 沈壽官存命中のまま長男 一輝が十五代を襲名し、『壽官』を名乗る。

十五代 沈壽官は昭和五十八年(1983年)早稲田大学を卒業、昭和六十三年(1988年)イタリア国立美術陶芸学校を修了。平成二年(1990年)大韓民国京畿道 金 一萬土器工場(現五父子雍器)にてキムチ雍製作修業。

平成十一年(1999年)三笠宮寛仁親王妃 信子様、平成十六年(2004年)十月、明仁天皇陛下御実姉 伊勢神宮御祭主 池田厚子様、同年十二月 大韓民国大統領盧 武鉉閣下ご夫妻の御来窯の名誉に浴した。