13.0㎝×8.7㎝高
【販売済】白井半七 菊画茶碗 shirai, hanshichi chrysanthemum bowl
白井半七 1928(昭和3) - 1987(昭和62)
白井半七 ‥江戸今戸焼‥
江戸今戸焼(東京都台東区今戸)の陶工の一人。今戸焼の創窯は不明だが、瓦器から茶道具、日用雑器まで作られていた。今戸焼はその歴史の中で、京都との交流があり、尾形乾山、永楽保全らの影響を受け、その作風が取り入られている。
初代半七は貞享年間(1684~1688)、土風炉や雲華焼の灰器や杓立などを製作していた。
二代半七は享保年間(1716~36)、瓦器に釉薬を施した楽焼風の軟陶を焼成し、「楽今戸」として珍重された。
三代半七は伏見人形に似た人形を作り始める。始められた時期は定かではないが、都鳥の香合が有名。
代々、「半七」を襲名し、四・五・六代は「芦斎」、七代は「楽半」と号し、その頃までは「隅田川半七」・「隅田川焼」とも称していた。
六代半七は明治初年頃、代を継ぎ、名工の名が高かった。
七代半七(1857~1933)の時、関東大震災(1923)があり、今戸焼の窯は崩壊。表千家十一代碌々斎宗匠に引き立てられ、兵庫県伊丹市に移窯。
八代半七(1898~1949)は昭和10年頃、初めて乾山写を手掛け、茶碗・水指・香合など色絵の華やかな作品を中心とした茶陶を造り、織部写など種々の写し物も造るようになる。書画の技も巧みで、茶の湯にも造詣が深く、歴代中でも名工の誉れが高い。また、昭和14年、小林一三氏や小西氏(白雪酒造)らの勧めによって、宝塚市へ移窯。
九代半七(1928~87)も書画の技に巧みな心豊かな趣味人で、京都芸術大学卒業後、八代と同様に乾山写を得意とし、その他にも独自の作風の茶陶を製していた。昭和55年、三田市に移窯。八代・九代とも、「本吉兆」の先代、湯木貞一氏とは親交が深く、数多くの「本吉兆」の器を製作。昭和62年3月歿。