【売却済】藤原啓 備前徳利 fujiwara, kei bizen tokuri (sake bottle)

藤原啓 1899(明治32)- 1983(昭和58)

藤原啓は明治32年現在の備前市穂浪に生まれた。
実家は農業であった上、もともと作家志望であり、中年にいたるまで焼きものとは無縁であった。備前焼を手がけはじめたのは昭和14年の春、実に四十歳の時からである。
彼は少年時代から文学志望であり、俳句や小説づくりに熱中した。同郷出身の文学者正宗白鳥に対するあこがれや賀川豊彦が出版した「一粒の麦」に刺激されて、ついに十九歳の時、代用教員の職を投げうって上京した。
東京での藤原啓の十二年間は波乱に富んでおり、文学を学ぶというより、人生を知ろうとする思想の放浪ともいうべき体験の連続であった。文学青年として若い詩人たちのグループとの交遊、博文館における編集の仕事を通じて知りあった多くの文壇の人々との交流をはじめ、絵や音楽も学ぶなど、思いたったらすぐ実践するというバイタリティを見せている。しかし、文学への道はついに開かれないまま、昭和12年、三十八歳の藤原啓二は東京を去る。
郷里に戻ると、友人で正宗白鳥の弟でもある正宗敦夫のすすめで備前焼を始めるが、まだ備前焼など売れない当時地方新聞に小説や随筆を書いては生活を支えた。特殊な勘と技術を要する備前焼だけにいくつもの障害に出会ったが、幸いにも金重陶陽が親切に指導してくれ、互いに師弟というよりも、ともに土を愛し、酒を愛する人生の友として備前焼の名声をもりあげてきた。後にともに人間国宝となったこの二人の作風はまさに対照的。陶陽の作品がきびしく精悍なのに対し、藤原啓の作品はおおらかで素朴である。それは、藤原啓の人柄をそのまま映している。いつもかざらず、人間がじかに出ている所が広く愛される所謂であろう。


1899 岡山県に生まれる
1918 文筆業を志し上京する
1937 文筆業を断念。郷里へ戻り、備前焼を始める
1941 金重陶陽に指導を受け、陶芸家として独立
1956 日本工芸会正会員になる
1958 日本工芸会理事になる
1970 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
1977 藤原啓記念館が完成
1983 逝去(享年84歳)